旧古河邸見学記
2003.5.19



北区にある旧古河庭園と、古河邸を見に行きました。
洋館のガイドのNさんのお話が素晴らしく、
こんな形に残してみたくなりました。

バラも素敵でしたし、建物も素敵でした。



旧古河家の洋館は、戦後の財閥解体の後、経済的に逼迫した当主が、税金の物納で納めた結果、都の所有となったもの。

修復には莫大な費用がかかるとのことで、かなり長い間、手も入れられず、つたのからまる洋館として、ほっておかれたそうです。

手入れをしない建物は、傷むばかりで、時には浮浪者が入り込み、中でたき火をするなどということもあったらしく、きちんと保存しておかなければと、修復にかかり、平成元年にその修復が完了し、一般にも公開されるようになったそうです。

建築時、当主だった古河氏は日本人としては珍しい180センチの身長で、建築家のコンドル氏も190センチの大男。随所に、背が高い人への配慮が見られます。





入ってすぐの玄関ホールのシャンデリアは、倉庫に予備の電球があったのを見つけ出し、当時そのものの形を、再現できたそうです。倉庫でその部品を見つけ出した時の関係者のホッとした気持ちがわかるような気がします。

玄関から左に入った部屋は、ビリヤード室。ビリヤードの重い台の下には、石がつまれ、床がへこまないように工夫されています。窓よりには、サンルームがあり、外の緑が一望できます。


サンルームのチェス板のような模様の床は、コンドル氏が建てた建物に共通だそうで、タイルを大量に注文し,コストダウンを計ったためでしょうとの説明でした。今度、他のコンドル氏の設計した建物を見る時は、要チェックですね。


そこから、続く部屋は書斎。当日は、モデルさんを使った雑誌かなにかの撮影中でした。お邪魔しますといいながら、通らせてもらって、続く応接間へ。

ここは、バラの庭園を見下ろせる,明るい部屋で、シャンデリアもクリスタル、晴れていると、太陽の光がシャンデリアに反射して、白い天井に光が揺れるのだそうです。

大きな鏡があって、部屋に奥行きを与えます。この頃のガラス製造は,手作業で、凹凸のない均一な鏡を作ることは、難しい時代、大きな鏡は大富豪のしるしだったのだそうです。

床は松材を使っているのですが、当時の床と,修復後の床を,くらべてみると、当時の床の方が白っぽいのです。なぜかと言うと、当時は、使用人が何と、50人くらいいたそうで、毎日床を磨き、松のヤニをふきとっていたからだそうで、修復まではできても、床を毎日磨くなどという手入れは現在、することができないので、手入れの差がでているとのことでした。

この応接間は、見学の後、お茶とお菓子を頂く場になっています。

全館、撮影禁止なので、中の様子をお知らせすることはできないのですが、雑誌の取材とかだったら、許可されるのか、カメラ片手に、ちょっと残念でした。









1階は応接室、2階は奥様の和室。

応接室から、食事室へ、ここは、待合室も兼ねており、部屋と部屋の間は、洋館には珍しい引き戸となっています。これは、コンドル氏が日本風にアレンジしたものだそうで、ばね仕掛けで,軽く動きます。

左手にバラ園を見下ろしながら、
メインの食堂へ。

ここは、一番豪華に造った部屋で、4寸の楢材を彫った花柄の彫刻で飾られています。その1つ1つが職人芸。

また、天井には、果物の漆喰での彫刻。こて細工で、みごとに果物が再現されています。
シャンデリアは、高低調節自在で、食事の時は、低く設定、ダンスを踊る時は、高く上げて使ったのだそうです。

電気は、自家発電でまかなったそうで、当時の裕福な家のようすが、目に浮かびます。

食堂ですから、食事を運び込むのですが、その窓口は、小さな小窓。

台所の雑多な音を伝えないように、その小窓の奥が配膳室、その奥にやっと、台所という構成になっており、表と裏の使い分けが、きっちりできていました。

便利さからいったら、面倒くさそうですが、使用人がいっぱいいるからできるのでしょう。



メインの食堂から出ると、もとの玄関ホールに。
そして、ゆるい階段で、2階へ。

このゆるい階段は、鹿鳴館風の衣装、つまり、ロングドレスを着、コルセットで締め付けたり、ハイヒールをはいた女性にとっては、こうでなくては、上り下りできなかったのだそうで、空間の見せ場の1つなのだそうです。

確かに、階段を華やかなドレスを着た女性がおりてくるのは、絵になりますね。
日本のお城の、ハシゴのような階段とは、趣を異にしています。文化の違いでしょうか。






その階段をあがると、2階の左手は、仏間です。

扉はドアなのですが、あけると、立派な仏間が現れるのは、からくり屋敷をみているようです。2階は、2つのベッドルーム以外は全部和室なのですが、入口はどこも、洋風で、和風混交がうまくできています。

あと、従来の日本家屋と違うのは、あくまでも住んでいる当主の部屋が、一番いい南向きにあって、客間は、北側の日のあたらないところにあることだそうです。

南向きの家族のプライベートな空間は、和室と、洋室があり、それぞれ、趣のあるつくりになっていました。

主寝室からでて、お風呂をみると、一人がやっと入れるくらいの大きさですが、お湯をわかすとか、お湯の取り入れ口がないので、質問すると、地下にあるボイラーでお湯をわかし、バケツで運んだとのこと、ここにも、50人の使用人が登場します。(左に続く)


(右より続く)お風呂のそばに、なにやらここだけ質素な秘密めいたドア。

これが、使用人と、当主の家族とを分けるドアで、その突き当りには、丸髷を結った女中頭の起居する6畳間があり、その窓からは、台所の様子が全部見えるようになっているのだそうです。

本館の屋根裏部屋には、男性の使用人が寝起きし、女中頭の部屋の奥に、女性の使用人の大部屋があるのだとか。

その女中頭の性格は、どうだったのかとか、想像を膨らませたくなる部屋です。
庭園のまわりには、使用人用の長屋もあり、使用人の格によって、すみわけがあったのでしょう。






この建物を設計したコンドル博士は、24歳で来日し、67歳でなくなるまで、日本を愛し、日本の文化にあこがれ、70棟もの建築を造ったのだそうで、お墓は護国寺にあるそうです。

70棟のうち、当時のままに現存しているのは、6棟、敷地も含めて、完全に残っているのはこの旧古河邸だけなのだそうで、残っている建物をこれからも維持する大切さを、しみじみと感じました。